頼政道
クリニックのそばに頼政道と言う名のバス停があります。開院当初は医院の立ち上げに精一杯で、地域に対しての感心事も医療のことが大半で、頼政についても頼政道という名前の由来にもさして興味もなく、いずれはどなたかが教えてくれるだろうと、調べもせずにいました。
ところが五年ほど前からある縁から「頼政道」、そして「頼政」のことを教えていただく機会があり、その結果ちょっとした郷土史の勉強をすることになりました。 とは言え、歴史書をどっさり買ってきて勉強というものではなく、授業はもっぱら診察室で、先生は患者さんたち、それに当たり前ですが、ほとんど耳学問です。しかし先生方は大学で学ぶのと同じくらいと言って良いくらい豪華なメンバーです。今から考えると主任教授はもう亡くなられた書家のMさんです。Mさんは元自衛官で書道の先生、近所の「頼政道」の石碑の書を書かれた方で地域の生き字引のような知識の持ち主でした。それからもうお一人が正真正銘のK女子大の歴史学のN先生です。診察のたびに頼政道、源頼政、道元、藤原道長や松殿山荘のことを伺いました。その他宇治陵のことや多くの社寺のことを多くの方に教えていただきました。
今回「地区だより」を書くという機会を与えられましたので患者さんに教えていただいた郷土史の頼政のところのおさらいを致したいと思います。
源頼政の生きた時代は源義朝と平清盛の対立を軸とした武士の台頭で有名な保元・平治の乱の激動の時代です。その時代に頼政はあるときは義朝側につき、ある時は清盛側につき、最後は清盛に反旗を翻して平家と戦い、ついに治承四年(1180)五月二十六日に平等院のいまも残っている扇の芝で自刃したと言われています。このとき頼政、七十六歳とも七十七歳とも言われています。
頼政の最後の戦いは次のように伝えられています。
滋賀県三井寺で平家打倒を掲げた後白河法皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)と源頼政をはじめとした反平氏勢力は平氏打倒のため三井寺に集結し、平氏の住む六波羅への夜襲の計画をたてるが、それが平氏側に露見したために、不本意ながら準備不足のまま挙兵を余儀なくされる。 興福寺に協力を取り付けたものの、延暦寺の協力を拒まれたため当初の予定とは大きく異なり、十分な戦力の整わない状況で奈良に向かう。 誤算続きの以仁王と頼政、夜間の行軍で心身ともに疲れた以仁王は途中6回も落馬したと伝えられている。頼政軍は休息のため字治平等院に本陣をおいた。急追した平氏軍と宇治橋に陣を構えてこれを迎え撃つ頼政軍は字治川で激戦が交わすことになった。このままでは不利とみた頼政軍は橋板を落として抵抗を試みるが、二万八千の圧倒的な平氏軍の前に戦利なく、流れ矢に傷ついた大将の頼政は軍扇を開き、辞世の一首を残しこの地で自刃し、他の多くの者も討ち死、もしくは自害したと言われている。
頼政の自死の場面を平家物語では以下のように書かれています。
「これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかてぞ失せられける。其時に歌よむべうはなかりしかども、若うよりあながちに好いたる道なれば、最後の時もわすれ給はず。その頸をば唱取て、なくなく石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治河のふかきところにしづめけり」とあります。
『平家物語』巻第四 「宮御最期」
自死した頼政が最後の戦いのため三井寺から醍醐、日野、木幡、黄檗を経て平等院に向った道が頼政道です。
現在の道と平安時代の末期の道を比べようもありませんが、道はそもそも人の行き交うところでしょうから、歩きやすく、安全で、しかもなるべく最短距離となる経路が選択されているはずです。その結果多くの人が歩いたため、草木がかき分けられ、踏み分けられて道ができたのでしょう。おそらくこの道も同様に自然発生的にできたもので、大津や京都から奈良に向かう人々の多くが利用した、いわば普通の山道と言えます。
そしてこの以仁王の乱の後この普通の道を頼政道と称するようになったということです。このことはこの出来事が当時の人々にとっては非常に大きな衝撃的な事件であったことを物語ります。特に周辺の人々にとっては頼政や以仁王を乗せた馬とそれに従う多くの兵士そして頼政軍を追う二万八千と言われる平氏一行が昼夜の別なく人一人通れるかどうかの細い道を平等院に向かう姿はどれほどのものか想像することはできません。道沿いの人々の目や耳に残った記憶は何年にもわたって人々の脳裏から薄れることはなかったのでしょう。そしてこの事件は数多くの伝承も残しています。そのひとつが鳥橋です。頼政は醍醐天皇陵の京道を過ぎて、ある橋を渡ろうとした所、鳥が一斉に飛び立ち危険を知らせた。よって頼政は橋を渡らずに東へ方向を変え、山伝いを選んだ、これ以来この橋を鳥橋と呼ぶようになったということです。それから頼政が日野で髭をそったと言われるひげの辻、頼政鎧掛けの松、頼政橋など多くの話が伝わっています。
頼政家集に「宇治路行く末こそ見えね 山城の木幡の関を霞こめつつ」とこの時を詠った頼政の歌が残っています。
頼政の辞世の歌は「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 実(身)のなる果てぞ 悲しかりける」
花などもう咲くこともないと思った埋もれ木のような自分がこんな最期を迎えるとは悲しいことよ、と読むのでしょう。悲惨な時間を過ごしている時に去来する様々な思いを歌に凝縮させる当時の武将の胆力に感嘆させられます。美しく悲しい歌です。
歌人としてもすぐれていたことは頼政の詠んだ歌の五十九首が勅撰集に選ばれていることでわかります。また若き日の鴨長明が頼政を歌人として仰ぎみていた存在だったことが『無名抄』からうかがい知ることができます。鵺(ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が残されている武勇の誉れ高かった頼政でしたが、自然や美しい人を愛した穏やかな気性の持ち主であり、情愛のある人間であったと推測できます。
ただ詩歌の才に秀で、平氏から武士としては破格の扱いで従三位に叙せられた武将がいかなる理由でこのような戦いを挑んだのかいくつかの説があるようですが、定かなことはわかっていません。七十を超え,出家した身分の頼政に一体なにが起こったのでしょう。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で男というものは思慮きわまれば、常識、情勢をもって判断すべきではない。男たる者の道をもって判断すべきであると言う意味のことを書いています。いくら情勢が不利であっても男の道に従って動かなければならないこともあるということなのでしょう。
歴史を動かした人々もそうしようと命をかけた人々もいつも情勢ばかりを読んで動いていたわけではない。当然ながら私利私欲のために戦ったわけではない。忠孝や正義に奉じた人もいたでしょう。美しく生きたい、高々とした心を持ち続けたいと願った人もいたに違いない。結果ばかり追っていては男の思案ではない。頼政の場合も戦果が必要なのではなく、源氏の者たる道をしっかりした逞しい足どりで歩かねば、といったものではなかったのか。頼政にとって三井寺から始まり宇治に至るこの頼政道が源氏の者たる道だったのではないか。頼政の見た人生の最後の夢、それは頼政道の向こうにあったのではなく、頼政が踏みしめた頼政道の上にあったと思われてなりません。彼の人間性には汲めども尽きない興味が涌いてきます。
日野から木幡に抜けるところに十字路の交差点があり、そばに京阪のバス停「頼政道」と私のクリニックがあります。この交差点は今では山科、醍醐、日野と黄檗、宇治を結ぶ交通の要所として早朝から多くの車が行き交います。
2012/07/22 門阪 庄三