宇治医報 (宇治久世医師会 発行)

厳粛な季節


あれからもう六年の月日が経ったということになる。

若い頃ならできたかもしれない。でも今はその長い時間を指でたどるような気の長いことはできない。分厚い冗長な本、たとえば専門用語をつないだ翻訳文を読まなければいけない時のような気の重い気分に耐えられない。その時間がとりわけ退屈、もしくは暮らしてゆくにはつらい日々だったとわけではない。どんな本にだって面白いところがあるようにいまから思えば六年の長い時間にも思い出せばそれは愉快な頃もあったとも言える。とりわけこの四年は猫がいる。

猫と一緒に暮らしていると亡くなった母が聞いたらびっくりするだろう。父母が生きていた昭和の時代はペットを飼うと言うことはそれほど一般的ではなかったと思う。それに生まれ育った家は友禅染め屋でしたから家の中には絹生地があちらこちらにおいてありました。友禅染め屋にとって生地のしみや汚れは大変なことで、できあがった襦袢や羽織の納品直前にしみや汚れが見つかったら家中の空気が凍ったような緊張が走ったものです。いまでもそのときの情景が昨日のように浮かびます。あるとき、高校生の僕が昼ご飯を食べているとき、しみがみつかった。父が十二歳上の兄を怒る、兄はしどろもどろに答える、母がしみ落とし屋さんへ今から持っていけばいつ治るか電話をする、そばで何もできない自分はいたたまれなくて食事も途中で止めて二階にあがり、畳の上に寝転がり、階下の様子をうかがう。しばらくして母が「しょうちゃん、ご飯残っているよ」と声をかけてくれる。こんなことが数度あったように覚えています。

ですから家の中に猫を飼うなどと言うことはそもそも無理なことで、小さい頃から猫や犬には縁がない暮らしをしていました。それに今から思うとですが、母は動物、とりわけ猫は好きではなかった。小学生の僕が、ある時幼友達の運送屋さんの土井君の家が飼っていた黒猫の話をしたときの気持ちの悪そうな顔は今でも忘れられない。そんな母にとって小さい頃の僕はと言えばちょっとしたびっくり屋さんだったようで、良く「しょうちゃん、びっくりさせんといてや」と言われたものです。自分ではそんな変わったことはしていないのですが、狂言師の娘で明治生まれの母には僕の思いつきや行動は時には新鮮であり、驚きであり、期待はずれであり、落胆だったと思います。「猫と生活をしている、もう四年も」と母が聞いたらびっくりする。びっくりするのが嬉しいように「まあ、しょうちゃん気色の悪い」と言うに決まっている。その顔が目に浮かぶ。

8月には父母のことを思い出す。

門 阪 庄 三

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